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私たちクリエイション・メンバーのお披露目もかねて、アトリエを借りている博物館でワークショップが開催された。9月22日のことである。
私は舞台であるとか、ワークショップといったかしこまって何かを提示しなくてはならないと思い込んでしまう場面に遭遇すると、このところは緊張からぐったりしてしまう。のんびりだらだらと冗談を言ってコーヒーをすするくらいが私にはあっているのだ。しかしすでに組み込まれている日程でもあるし、事前に宣伝もしているからそうも言ってられない。それに、実は私自身、Wei師傅のワークショップを受けるのを楽しみにしてきた経緯もある。
ところで、数少ない読者諸氏の内、幾人ほどお気づきになったであろう。私がその冒頭Wei氏と記し、すぐにWei師傅と記したのを。この変化は当初、ごく普通に「さん」で始めようと思った敬称であったのだが、初日にPo氏より「師傅」と呼んでくれるように、との話があり、みな素直なのでこれを受け入れた。と同時に、事前の連絡などに「Wei C Fu」とあったのはこのことであったかとも思ったものである。ただし、私は当初これを芸能者に対する敬称としての「師匠」か、もしくは「師父」の字を充てるものと思っていた。後々これをPo氏に尋ねた折、これが単に敬称というよりも指導的立場にある人を意味する「師傅」であることがわかったのである。京劇のアクションを学んでいるPo氏にとっては当然外しえない語句である。とはいえ、こうした役職の位をもって敬称にかえるのも親しみが沸きづらかったこともあり、私は個人的に「師匠」という敬称をもってWei師傅への敬意と親しみの意とにさせてもらったものである。
おそらくは、この先、読者の方もこの使用を目にするようになろうかと思われる。ただしそれは私が日記を綴るていでのこのおしゃべり、いやレポートに早々と明確な飽きを迎えなければの話でもある。
それにしても、私の体はこのところ怠惰を人に示すにはもってこいとばかりの誤解を招きやすいものとなってきた。
私はこの日、緊張だけではなく、すでに前日までに蓄積された疲労などが、熱中症の症状を誘発していた。何とか初めの水野氏のあいさつを受けて、ワークショップのメンバー紹介といった司会めいたことをしてから自分のワークショップを予定の時間内に収めて小休止。
ちなみにこの日のプログラムは私の盆踊りを通して体感する庶民の踊り。この中ではいわゆる「なんば」を基調としているステップを皆でくりかえすもので、岐阜県下は郡上八幡≪ヤッチク≫と美濃白鳥≪世栄≫の二曲を体感素材とした。みんなで一つの身振りを一緒に繰り返してぐるぐると輪を描くこのような庶民の踊りというのは、鑑賞されるものである以前の打ち興じる類のものであるから、参加者のウォーミングアップにはもってこいの踊りであるように思う。心なしか参加者の皆さんは緊張から笑顔がこぼれ始めたように見受けられ・・・そう、手前味噌である。というのも、司会も含めたこの20分程度を終えた瞬間から、体も頭もぐったりとしてしまった。汗取りに着替えた私は、そのまま椅子にうなだれこんでしまったのである。であるからして、プログラムにおいて一応の役目は果たしたと強調したい自己保身からこうした一文を・・・。
前日までの琉球舞踊学習の過程で、右足なら右手といった具合に、差し出す足と手とが同じであるということに興味深く思っていた。こうした舞踊の基調をなす身のさばき方というのは果たして大陸にあるものかどうか。どういったルーツが考えられるのだろうか、なかなか興味をそそられるところがある。
また、盆踊りはその信仰的性格はともかく、どこか近世的な行事として私はとらえているのだが、この盆の行事と重なるものが琉球ではどのように行われているのかよくわからないままである。映画『ベストキッド2』の城跡のようなところでの盆踊りはおそらく実在しないか、もしくは近代「ヤマトユー」の同化政策のもとで始まったところがもしかするとあるかどうか、といったことが推測される。もしくは「アメリカユー」を経て沖縄返還後に親善交流の形をとって行われるといったこともあったかもしれない。これは神奈川育ちの私にとって米軍基地に入った思い出の一つとして記憶されている行事でもあるのだが。
知花幸美先生のお話では、彼女が幼少期に盆踊りの折に民舞を踊った事、そして自分こそはと思っていたその自信も、他の着飾った出場者に賞を奪われるなどしていち早く世間を知った事など、どうやら盆には踊りを伴った行事があった様子だが、それが各地区で行われる秋頃の祭りとどのような関係にあるのかについては細かく聞かずに終わった。例えばエイサーのような念仏踊りではなく、芸能の歴史から見てそれ以降展開した盆踊り様の行事。あるいは奄美地方の八月踊りのような行事がはたして本島にあったかどうか、今のところ寡聞にして私は聞かない。
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