remo-memo5


ダンスであることを基調としながら、いかにダンス以外の文脈を持つ文化とコミュニケート可能か。

事後であるからこそこのような回想もできるのである。
その時には、今回のクリエイションは小規模であり、実験段階をそのまま提示することが目的ともなりうる作業であろうから、どこか乱暴に、振付家が「ダンス」の概念をもって一歩踏込み、コミュニケーションの不可能性や一方向性をあえて告発することもできるな…とかなんとか、不安とも希望ともつかない心持を、さっそくの草臥れのなかで抱いていたものである。

この日は、沖縄そばの店に向かう小休止をはさんで後、知花小百合先生を講師に琉球舞踊の稽古をつけてもらう。
他のメンバーの四つ竹が鳴る中で、私だけは三線の調査という役もあり、特別に古典の与那国大介先生と三線の稽古となり、演奏法をはじめ三線と三味線との違いを、まずは楽しんだものである。

「夜はらす船や みぬふぁ星みあてぃ わんなちぇる親や わんどぅみあてぃ」(≪てぃんさぐぬ花≫)

翌9月19日。Po氏が昨晩の琉球舞踊、そして小百合先生の解説に登場した玉城朝薫と、彼の創作した組踊への能の影響、そして能についての質問を皮切りにしばし車座になっての四方山話。

Po氏はyoutubeで何かしらの映像をチェックし、また世阿弥についてネット検索し、その原文の翻訳か、もしくは解説の中に現在の彼の考えていることにと通ずる箇所を発見したようである。
その驚きは、自分の癖に陥ることなく、観客がこれこそと思うものを努めて作るようにするべきである、といった内容の一文に出くわしたことによるようだった。おそらくは『風姿花伝』にある「まことの花」を養う上での、能の工夫に関する条ではなかったか。

非常に大雑把なことを言うようであるが、『風姿花伝』をめくるとき、実質的な創作者であるならば当然のように響いてくる一文がそこに見出されるように思われる。一人の創作者として、その作品におけるクオリティ、コンセプト、見せ方、またそれ以前の制作自体の必然性など、個々の作業やその方向性に戸惑いが生じたとき、また、おおよそジャンルとしての様式確立が未然状態であったり、様式化に陥らぬ試行錯誤を繰り返しているような状態の当事者を自任した時など、この能を芸術として鑑賞対象に押し上げる工夫と思索を凝らしたスターの簡潔な言葉が、先達のそれとして足元を照らしてくれるように響いてくるはずである。

「Poさん、今自らのダンス作品とともに同時代のダンスシーンをいかに構築していけるか―そういった問題に直面しているあなたと、一つの芸能に確固たる地位を築き上げる大きな柱となったこの世阿弥とでは、問題意識の上でどこか重なってくるところがあるのかもしれませんよ」。

そのすぐ後に緒方氏のカバンから文庫版の『風姿花伝』が覗いていたのを見て、こうしたその場しのぎにも似た私の応答を、彼女がどう思ったものであったかと案じつつ、遠慮なしにその本を開いてくれていたらもう少し変わった話の山が築かれたかもしれないなと自らの厚顔を恥じたものである・・・と、謙譲してもみる。

話は昨日博物館で見聞したことや、習いはじめた琉球舞踊、「踊奉行」を持つ琉球王朝の特異な外交政策を思い浮かべつつ、沖縄、そしてさらに幅広く日本、中国、歴史と叙述、あるいはそれらに関する物質的道具立ての一つ・紙などへとゆらめきながら、中国の歴史と香港の現在的状況へと往還するなどした。

そうこうするうちに、歴史をさかのぼりながら琉球文化の独自性を思う時、現在は一つの国だが、どうも「日本(ジャパン・大和)」と「沖縄(琉球)」とをひとまとめに「日本(ジャパン)」として語れないところが出てくるように思われてきた。それを単純に地方性とみることもできたのだろうが、中・近世との歴史的往還を想定しながら話をしようとするとどうもしっくりと来ないところがでてくるのだ。
それにしても、こうした何を根拠とするのかはっきり提示しずらいところは本当はごまかしたほうがレポートとして無難なのだろう。しかし、香港や台湾に所縁のある二人を大まかに一国の国民としての枠組みだけで区分し、その国の代理表象として向き合うよりも、なおそれぞれがそれぞれに養ってきた文化の体現者であり、その文化に敬意を払いながらどのように一つの作業を進めることができるかにまず思いめぐらすのが今回のメンバーでは似つかわしくはないだろうか。私は一足飛びにそう飛躍したく思った。もちろんそれぞれがそれぞれの国家のもとに暮らす国民であり、その法制度が文化状況へと与える影響もある。しかしその差異を対比するために参照すべき歴史的経緯を持ち出して比較考察するような学術的方法が果たして今回の一月弱の共同作業に似つかわしいことかどうかわからない。わからないし、少なくともこの場に集まった四人の中から、この方法を今回の製作段階でとるべきだと発言した者はなかったように思う。

私たちには、まだまだ共同作業を進める上でお互いの個性を見極める必要があった。個々人を一人の文化の体現者としてみようとすることは、おそらくはこの場合に共同作業を進める上での自然の成り行きでもあったのだろう。今回の作業を、そうした個々の文化がどういった点で共存できるのかを探ろうとする場ととらえることは積極的に考えればとても面白い実験に発展する可能性があるように私には思われた。

とはいえ、私たちの話はこうした制作上のコンセプトに直接言及する積極性を示す以前に、漢字文化圏として日本文化への中国文化の影響関係、そして舞踊概念に関する大まかな話と私の関心のある庶民の歌と踊りの関係についてなど、手探りで互いの関心における接点を探して進んだ。演出の役もあってか、この時Po氏なりにあれこれと応答してくれたことは興味深いことであったし、その後も彼は進んで話しの場を持つ制作上の性格を見せたことは彼のスマートさを印象付けた。
一方、話途中でWei師傅は目を閉じるなどしていた印象である。それは後々わかってくることであったが、Po氏と異なる彼なりの舞台作品のあるべき姿と、制作に関する差異の表れであったのだが、この時はわりとのんびりしたところのあるのだなと、親しみをもって見るにとどまっていた。

あぁ、今何か糖分をとる必要があるな。六花亭のボンボンでも弄ぶかな。

(メモ:筆記具を自給するということと。社会とリテラシーの関係。)

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