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9月18日のことだ。
昼間、今後本格化していくPo・Wei両氏のクリエイションにおいて、私および緒方氏の身振りからその個性を確認する作業が行われた。
京劇≪三ちゃ(「分」の下に「山」)口≫の演出上、主要な要素となっている動き―つまり、暗闇で相手を探る動きについて数パターンが試され、また引き続きペアとなって組み手を基調とする動きの振り写しが行われた。

暗闇で目の見えない状態の二人の人物が、互いを探りながら同じ動きをするという振りである。最終的には互いに近接しているにも関わらず、その互いの位置がつかめないまますれ違うというシーンとなっており、二者の息が合えば、おかしみの生まれる断片となる類のものでもある。そしていま一つは電車内。揺れによって接触した二人がいざこざに展開する組手で、互いに突きや蹴りを繰り出しては、相手のそれを払うなどし、最終的には腕を取り合って、にっちもさっちもいかぬまま、飛び上がり、着地とともに見得を切るというものである。非常に短いものだが、歯切れの良さがあり、やっていてもなかなか気持ちの良いものであった。しかし、初回の稽古からこのくらい動くとなると、今後の体力が続くかどうか、と個人的には悩ましくもある。

そうした中で、私の物覚えの悪さと体の重たさをいち早く見て取った香港チームは、緒方氏をダンサーとして採用する一方、私の扱いにはやや難しさを覚えてくれた様子でもあった。この点、後日Po氏が告白したところでは、「事前に送ってもらった映像資料をみて、彼をダンサーだと思っていたのだが、実際あってみるとただの変った(ストレンジ)人だった」と。
彼は、演出に自分の名が入ったクリエイションにおいて、彼の考える「ダンサー」ではない何者かとともにダンス作品とは何かという自問とともに仕事を進めなくてはならないことに改めて気が付いた・・・と文面の上では装飾しておく。

ところで、香港からの二人が話し合いながら緒方氏と私に試した身振りは、あえて積極的に解釈をするまでもなく、私には京劇の要素色濃い身振りで構成されたダンス・シーンのためのコンタクトとしてとらえられた。
京劇の身振りが持ち合わせるパントマイム風の情景を描写する説明的な身振り。そういった身振りは、マイムを取り入れたモダン・ダンス以降のダンスをめぐる実験を引くまでもないくらいにダンスと馴染んでいるところがあるように思われる。いや、それ以前にも「あて振り」という情景を描写する上でのテクニックがすでに舞踊には備わっているではないか。またアクロバットにしてみても、ここであえて取り上げるのも迂遠に感じるほどにテクニックとしてダンスに馴染んだ身振りの一つであると言える。しかし、今一応確認しなくてはならないのは、これはあくまでダンスに主体をおく目線なのである。

後日備瀬に移動してから、このメンバーで作品を作る上での話し合いの時間が自然に訪れた。基本的な質問として「京劇の身振りについて、あなたはそれをダンスの範疇にあるものとしてとらえていますか?」といった私からの問いかけにPo氏は当然のように「No」と答えたのである。もちろん、今京劇の代理表象としてのWei師傅は立ち回りの専門家でもあるから、その身振りは当然踊りというよりもアクロバティックな性格をより強く示しているし、彼の身振りに対する目線とでもいうべきものはいつも状況説明の合理性に依拠している。

それにしても私はこういった答えにますます興味を覚えた。そしてBo氏はこう続ける。「京劇の動きは、ダンスの動きとは異なります。しかし、私がダンス作品の中でその動きを使うことによって、それはダンスにカテゴライズされるものとなるはずです」。

そういった彼の自負を眩く思いながら、ふと、自分の立ち位置をすっかり忘れて、ダンスに関するクリエイション・プログラムであることから、いつしかダンスに基調を置いた目線で参加者とその身振りなどをとらえる立場に立っていたことにも気づかされた。
例えばこのようにダンサーであるということに立脚した場合、長い時間をかけて確立された芸能、それを継承している人物や団体との間でともに創作をする上で、互いの了承点を探るために事前に多くのステップが共有されている必要があるだろう・・・と今更ながら思われもした。

そういった合意形成が、今回Po氏とWei師傅との間でなされたうえでの合流とばかり思っていた私だったが、どうやらそのすり合わせ自体も、今回の作業の中から探りたいといったような趣旨の返答には、私もいささか面食らったところがあった。

そして、すぐに、彼らの「ダンス」と「京劇」との舞台表現における合意形成を探る過程にと立ち会えることへの期待にと方向転換することが、私たちのクリエイションには必要であり、同様、ダンスに基礎を置く緒方氏はダンサーとしての対応力を発揮した一方で、異質分子として私が位置づけられつつあることにも向き合う必要が我々の共同制作には生じたのである。
実にメンバー4人のうち半数、いや、緒方氏の神楽に関する近年の活動を考えると、70パーセント程がダンス以外のなにかであるかもしれなかった。もちろん、ここでいう「ダンス」が一般名詞として踊りに関する現象一般を総括するものなのか、はたまたもう少し踏み込んで時代・文化の中で何かしらの現象領域を形作っているものであるのか等々については整理しておく必要はあるのだろうが。

しかし、そういった前提条件をひとたび無効にすることもまた、共同作業の中より概念の再構築を試みるような面白みはあるものである。結果的にはこの点に踏み込んだ制作にはならなかったのだが、その一方で、このクリエイションがその結果としてコミュニケーションに最も重きを置いたことは、この時点ですでに決定していたのだと、今となっては思われる。

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